2014年4月10日木曜日

礼拝


4月は、キリストが十字架にかけられた記念の月です。
 
 
礼拝でも、キリストの十字架と復活に焦点があてられて、聖書のみ言葉が語られます。
 
 
「神は、キリストの十字架を通して、・・・人々の罪の責任を問うことなく、世をご自分と和解させられました。」(Ⅱコリント5の18参照)
 
 
この聖書のみ言葉を読んだとき、わたしはびっくりしました。なぜって、「人々の罪の責任を問うことなく・・・」って、そんなことが本当にありえるのだろうか?と思ったからです。
 
誰しも、何かしらうしろめたい思い、良心の呵責をもっているものです。「こんな自分なんて・・・」とどこかで思ってしまいます。
 
でも、この御言葉は、「もう悩まなくてよい」「もう過去の失敗をいつまでもひきづらなくてよい」「自分なんて・・・そんな風に考えなくてよい」とわたしたちに促しているのです。
 
それは、イエス・キリストが、全人類の代表として、すべての人の罪を背負って、身代わりとして十字架にかかってくださったからです。
 
だから、この十字架の犠牲の故に、「人々の罪の責任を問うことなく」、無条件で神はあなたを赦し、神の平安でわたしたちをつつんでくださる、という意味です。
 
聖書の別のところには、「わたしたちがまだキリストを知らなかったときに、神はわたしたちを愛して、御子(キリスト)を、わたしたちの罪の購いの供え物としてささげられました」とあります。
 
わたしたちがキリストを知っていようが知っていまいが、また信じようが信じまいが、神は「あなた」を愛し、あなたのためにイエスキリストは十字架にかかって身代わりとなって死んでくださったということです。
 
これがおどろくべき神様の愛=アメージング、グレイス!です。
 
だから、わたしたちは、もう「過去の失敗」をいつまでも悔やむ必要はありません。自分の良心の咎めをいつまでも、抱え込む必要がないのです。「わたしなんか・・・」なんて思ってはいけないのです。
 
古い自分はきっぱりと捨てて、キリストの十字架によって新しくされ、新しい人生を歩みだしましょう!
 
 

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