2014年4月23日水曜日

親子礼拝

4月20日(日)は、親子礼拝でした。といっても、ほぼ教会学校。子どもの教会学校に、大人も参加!というコンセプトです。


まず、大人の聖歌隊が賛美歌を歌いました。



楽しい賛美歌(子どもだけだったら、もっと盛り上がるんですけど・・・大人がいるのでちょっと緊張・・・)のあと、フォトストーリーで聖書のおはなし。

この日は、イエス様の十字架と復活のおはなしでした。

“12歳の少年の見た物語。・・・

おそろしいうわさを聞いたんだ。・・・

イエス様が、十字架にかけられるって・・・「なんで、どうして・・・?」

・・・僕は聞いたんだ。イエス様が十字架の上で、祈られる祈りを。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのかわからないのです」ってね。・・・

僕は信じられなかった。自分を十字架につける人のために、とりなし祈るなんて・・・。

・・・

でも、それから3日目、もっと驚くことがあったんだ。

イエス様が、よみがえったって!・・・びっくりした。やっぱりイエス様は生きてたんだ!・・・

でも、イエス様の手のひらを見たとき、ドキッとした。そこには、十字架のあとがくっきりと残っていたんだ。

イエス様は、その手で、僕をあたたかく包み込んで、「もう怖がることはないよ。いつもあなたとにいる」と言ってくれたんだ。・・・”

「十字架にかかり、死んでよみがえったイエス・キリストをいつも思っていなさい。」(聖書)

Happy Easter !

2014年4月16日水曜日

オープン礼拝

オープン礼拝「親子教会学校」のご案内です。


楽しい賛美歌! 感動のおはなし! ランチタイムまで! 心あたたまること間違いなし! すてきな1時間!

ぜひ、いらしてください! (無料です)

礼拝

先週の礼拝で、「The Bridge~知られざる愛の物語」というショートムービーを見ました。1937年アメリカでほんとうにあった話を、映像化したものです。



衝撃的で、ショッキングな出来事です。「知られざる愛の物語」とあるとおり、乗客の多くは、そんな犠牲があったことも知らなかったかもしれません。

でも、父親と幼い息子の犠牲の故に、命が助かり、生かされていることは、まぎれもない事実なのです。

実は、2000年前、キリストもこれと同じようなことをされました。

わたしたちがキリストを知っていようと知っていまいと、信じようと信じまいと、キリストはわたしたち全人類の罪を背負って十字架にかかり、罪を償い、わたしたちの罪と取り除いて、わたしたちが生きるようにしてくださったのです。

「神はその独り子をお与えになったほどに、この世(わたし)を愛された。それは御子を信じるものが一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)

・・・

(映像から)いけないと思ってもやめられず薬物にはまり、人生が崩壊寸前だった人が、わが子をささげた父親の叫びを聞き、自分がこうして生かされているのは、幼い子どもの命の故であることを知ったときに、新しく生まれ変わったように、

わたしたちも神様の愛と、キリストがわたしたちへの愛のためにしてくださったことを知るときに、わたしたちの人生は、おのずと変えられていきます。

十字架によって示された神の愛を、どうぞ受け取ってください。

2014年4月14日月曜日

教会学校お楽しみ会

教会学校のお楽しみ会をしました。

♪ 小さな野の花でも
  主の愛を受けて輝く
  あふれる主の恵みは
  いついつまでも

  バラはバラのように
  すみれはすみれのように
  わたしもこのままの姿でついていきます。(「このままの姿で」より)

賛美歌を歌い、フォトムービーで聖書のおはなしをしました。

ある人が羊を100匹飼っていて、1匹がいなくなったら、99匹を残して、1匹を探しに行くというおはなしです。


そのように神様は、わたしたちひとりひとりを、かけがえのない存在として愛していてくださっているんですね!


おはなしのあとは、ドッチボール大会!大盛り上がり!



思いっきり遊んだあとは、おやつタイム。チューペットがおいしかった!

2014年4月10日木曜日

礼拝


4月は、キリストが十字架にかけられた記念の月です。
 
 
礼拝でも、キリストの十字架と復活に焦点があてられて、聖書のみ言葉が語られます。
 
 
「神は、キリストの十字架を通して、・・・人々の罪の責任を問うことなく、世をご自分と和解させられました。」(Ⅱコリント5の18参照)
 
 
この聖書のみ言葉を読んだとき、わたしはびっくりしました。なぜって、「人々の罪の責任を問うことなく・・・」って、そんなことが本当にありえるのだろうか?と思ったからです。
 
誰しも、何かしらうしろめたい思い、良心の呵責をもっているものです。「こんな自分なんて・・・」とどこかで思ってしまいます。
 
でも、この御言葉は、「もう悩まなくてよい」「もう過去の失敗をいつまでもひきづらなくてよい」「自分なんて・・・そんな風に考えなくてよい」とわたしたちに促しているのです。
 
それは、イエス・キリストが、全人類の代表として、すべての人の罪を背負って、身代わりとして十字架にかかってくださったからです。
 
だから、この十字架の犠牲の故に、「人々の罪の責任を問うことなく」、無条件で神はあなたを赦し、神の平安でわたしたちをつつんでくださる、という意味です。
 
聖書の別のところには、「わたしたちがまだキリストを知らなかったときに、神はわたしたちを愛して、御子(キリスト)を、わたしたちの罪の購いの供え物としてささげられました」とあります。
 
わたしたちがキリストを知っていようが知っていまいが、また信じようが信じまいが、神は「あなた」を愛し、あなたのためにイエスキリストは十字架にかかって身代わりとなって死んでくださったということです。
 
これがおどろくべき神様の愛=アメージング、グレイス!です。
 
だから、わたしたちは、もう「過去の失敗」をいつまでも悔やむ必要はありません。自分の良心の咎めをいつまでも、抱え込む必要がないのです。「わたしなんか・・・」なんて思ってはいけないのです。
 
古い自分はきっぱりと捨てて、キリストの十字架によって新しくされ、新しい人生を歩みだしましょう!